中世の城跡(画像準備中)
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中世の城跡

  

木曽義仲や畠山重忠といった、歴史上の重要人物にゆかりのある嵐山町。歴史深い嵐山町には、数多くの史跡が今も残っています。 (以下、現在編集中 近々公開予定)   



菅谷館跡(国指定史跡)



嵐山町菅谷にある国指定史跡菅谷館跡は、鎌倉幕府の御家人、畠山重忠が構えたとされる。ところが、現存する遺構は、戦国時代の城郭を示す縄張りとなっている。本郭の南は都幾川を臨む急峻な崖であり、東西には自然の侵食谷が深く切り込んでいる。北に向っては二の郭、三の郭と西の郭が重層して防御を固めた平城である。面積は約一四万平方メートル。平坦にして各郭が広いので大勢の軍隊の駐屯と、物資の集積が可能な兵端基地の役割を果たしたと考えられる。

戦国時代のはじめ、関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による「長享の乱」と呼ばれる抗争があった。この地域では長享二年(一四八八)に須賀谷原の戦いがあり、戦死者七〇〇余り、馬数百がたおれた未曾有の激戦であったと記録されている。この合戦の直後、山内上杉氏に属する岩松家の松陰という陣憎が、須賀谷の旧城を再興するように進言したことが彼の著した『松陰私語』にある。この旧城が重忠の菅谷館であったとすれば、現在見る城郭遺構は、このときの改修による築城と推測される。

そのころの山内上杉氏の本拠は鉢形城、対する扇谷上杉氏の本拠は河越城にあった。その中間にあって扇谷上杉氏の勢力の前線基地である松山城に対抗するための城として須賀谷城が取り立てられたのだと考えられる。しかし、記録には永正二年(一五〇五)、管領山内上杉顕定が須賀谷に陣を移したことや、永正六年、小泉掃部助の須賀谷の陣所に連歌師の宗長が訪ねてきたという記事を見かけるのみで、短期間のうちにこの城に関する史料は途絶えてしまう。

その後、この地域の情勢はめまぐるしい変転があった。そして、関東管領上杉氏や古河公方といった旧勢力に代わって小田原の後北条氏が勢力を伸ばしてくると、北武蔵は、松山城、鉢形城、忍城など、いくつかの有力な支城に地域経営の拠点が集約されていくことになる。菅谷城をはじめ、その中間にあった中小の城郭群の多くは、そうした流れの中でやがて役割を終え、廃城となったのだろう。

現在、敷地内には「埼玉県立嵐山史跡の博物館」 があり、菅谷館跡をはじめ比企地域の歴史資料を見ることができる。また、周囲は雑木林の広がる自然豊かな史跡公園となっていて、各所に案内板も設置されている。

(文章:植木 弘氏 提供)






さらに詳しい情報は、PDFファイル(874KB)もしくは「嵐山町web博物誌」(外部サイト)をご参照ください。