嵐山の沿革
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その日の様子を現地取材・リアルタイム発信するさくら開花情報「都幾川桜堤 さくらだより2017」

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武蔵嵐山

昭和初期の嵐山渓谷 昭和3(1928)年、地元有志の招きに応じ当時の菅谷村を一人の学者が訪れました。日本の林学の草分けで東京大学名誉教授の本多静六博士です。

博士は、菅谷館跡から槻川に沿って遠山まで歩き、途中この景観に接し「これは武蔵嵐山だ」とつぶやいたということです。現在の町名は、博士のその一言に由来しています。

昭和5(1930)年当時の嵐山紹介記事

その後、昭和5(1930)年、朝日新聞社による「東日本新名物」に「武蔵嵐山」が紹介され、昭和6(1931)年には実業家庄田友彦によって、中枢部に豪壮な料亭旅館「松月楼」が開かれました。

渓谷を堰き止めボートも浮かべられたこの景勝地は、東京近郊の日帰り観光地として一躍脚光をあびることとなり、昭和10(1935)年には東武鉄道も「菅谷駅」を「武蔵嵐山駅」に改称したほどでした。

昭和14(1939)年6月、歌人与謝野晶子は、松月楼を訪れ、周辺に遊び歌を詠んでいます。「比企の渓」と題するこの29首は、歌誌『冬柏』に載録されています。

そもそも嵐山渓谷は、北の大平山と南の塩山の間を大きく蛇行して流れる槻川の景勝をいいます。八王子構造線という断層に沿って秩父の山地地形が東の丘陵地形へと転換する場所にあたり、緑泥石片岩や紅れん石片岩などの結晶片岩系の岩畳が河岸に屹立する景観は、かつて「新長瀞」とも呼ばれていました。

現在は、この嵐山渓谷周辺の樹林地13.5haが、緑のトラスト保全3号地の指定を受け、平成9年度には公有地化がはかられ、優れた自然環境と景観の保全と活用のための様々な活動が展開されています。

また、文字通り京都の嵐山同様に、春の桜、秋の紅葉は、ことのほか絶景であり、多くの日帰り観光客で賑わっています。

(文章と画像提供:嵐山町文化スポーツ課 博物誌編さん室