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畠山重忠 公

武蔵武士の典型的人物であり、武将の鑑として尊敬されてきた畠山重忠(はたけやましげただ)。源平合戦での活躍ぶりは特に有名です。嵐山町にある菅谷館跡(すがややかたあと)は重忠の構え住んだ館であるといわれています。 

【画像】畠山重忠公像 菅谷館跡・二ノ郭の土塁上に建っている竹筋コンクリート製の像です。昭和4年(1929)に造られ、鎌倉のある南の空を見守っています。平成23(2011)年度に嵐山町の文化財に指定されました。 

鎌倉武士の鑑

畠山重忠は、1164(長寛2)年、武蔵国男衾郡「畠山の館」(現深谷市畠山)に生まれました。父は畠山重能、母は三浦義明の娘です。畠山氏は、坂東八平氏のひとつ秩父氏の嫡流の家系で、父重能のとき、秩父から畠山に移り住んで畠山の苗字を名乗りました。秩父氏は、代々在庁官人の主席である「武蔵国留守所惣検校職」に任命される家柄であり、武蔵武士の棟梁格の存在でした。 

1180(治承4)年、源頼朝が平家追討のために挙兵したとき、重忠は17歳でしたが、在京中の父重能に代わり、河越氏、江戸氏らの同族や一族郎党を率いて参陣しました。当初重忠は、父が平家に仕えていたため、平家軍に加わりましたが、のち、頼朝に服従を誓いました。頼朝は重忠の参陣を大変喜び、以後は常に軍の先鋒をつとめる名誉を重忠に与えたのでした。 

その後の重忠は、いわゆる源平の戦い、木曽義仲追討の戦い、源義経を追って平泉の藤原氏と戦った奥州合戦などに数々の戦功をあげ、また、草創期の鎌倉幕府の有力御家人として多くの功績を残したことが『平家物語』『源平盛衰記』『吾妻鏡』などに詳しく記されています。 

それらは、単に武将として武芸に秀でていたということにとどまらず、平家追討の一ノ谷の戦いの「鵯越の逆落し」で愛馬を背負う剛勇かつ優しい人柄、奥州合戦は阿津賀志山の戦いに、あらかじめ同行させた工兵に敵の築いた防塁を埋めて通路を確保した知略、義経の行方を追及するために鎌倉へ呼び寄せられた静御前の舞にあわせて銅拍子を打った音曲の才能、などなど、多方面にわたるエピソードに見ることができます。また、重忠の公正で誠実な態度から、将軍頼朝をはじめとする御家人たちの信任が篤かったことも知られています。 

そして、重忠の最期は悲劇的です。頼朝の死後、幕府の実権を独占しようとする北条氏によって有力御家人が次々と謀殺されていくなかで、重忠もその例に漏れず、1205(元久2)年6月22日「鎌倉に異変あり」の報を受け、急ぎ手勢130余騎を引連れて武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区)に到着した重忠は、待ち受ける数万の敵に接し、すべてが謀略であることを知ります。しかし、重忠はこの期に及んで逃げも隠れもせず、潔く死の決戦に臨むことで、自らの無実を証明し、後世に名を残す途を選んだのでした。時に42歳の厄年であったということです。 

このように、畠山重忠の人物像は、後世には「鎌倉武士の鑑」とまで讃えられるようになっていきました。そうした背景には、重忠の悲劇的な最期とも重ね合わせて、何よりも誠実で思いやりのある人柄というものへの、日本人の時代を超えた深い共感が存在しています。この価値観が変わらない限り畠山重忠の物語は未来に語り継がれていくことになるでしょう。

(文章:植木 弘氏 提供)

菅谷館跡(国指定史跡)

鎌倉幕府の正式記録と伝えられる「吾妻鏡」には、重忠が最後を迎える二俣川の戦いに出発したのは「菅屋の館」であると記されています。この館があったとされるのが嵐山町の大字菅谷にある菅谷館跡です。現在の菅谷館跡に残る土塁や掘の跡は、戦国時代に後北条氏が築城した菅谷城の跡であろうと推測されていますが、それ以前にあった重忠の館跡もこの辺りであったと考えられています。 重忠を郷土の誇りとして顕彰する嵐山町民の気持ちは、町立菅谷小学校校歌の歌詞や、毎年執り行われる慰霊祭・歴史講演会など、数々の行事として継承されています。

 

 【菅谷小学校校歌 二番の歌詞】 「智あり仁あり勇さえありて あるが中なるもののふ彼と 人に知られし英雄も かつてはここに住みたりき」 1917年(大正6)年制定 作詞:菅谷第一尋常高等小学校 訓導 新井順一郎

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